Comments by Dr Marks

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No.1. 『聖書のおんな』―1. イヴの巻

女は「おとこ」から造られたので「おなご」だし、ONOKOから造られたのでONNAと呼ばれる。従って、「おのこ」は男性語尾KOで終わり、「おんな」は女性語尾NAで終わることが理解できるであろう。

というのは Dr. Marks の冗談だから、本気にしてはいけない。いや、もともと本気にはしないのであろうが、聖書に書いてあれば信用する人もいる。その聖書にはこのように書いてあるからだ。「これこそ女(イシャー、אשה)と呼ぼう。まさに男(イシュ、איש)から取られたものだから。」

男から取られたとは、どういうことかというと、神が男の寝ている間に男のあばら骨の一部を抜き取って、その骨で女を造ったからである。つまり、イシュからイシャーを取るという語呂合わせになっている。女は男から造られたのであるから二人は一体であるということになる。

さて、女は男から造られたわけだが、あばら骨の一部を取られた男は、実は男でなくて「人」と呼ばれている。それでは人(男)はどこから造られたのかというと、人(アダム、אדם)は土(アダマ、אדמה)から造られたなどと書かれている。ここから、アダムという名前が出てくることになる。

どうです。聖書がそんな駄洒落を言うのであれば、Dr. Marks の冗談だって一理あるじゃありませんか。何? Dr. Marks には権威がない? あなたも、おっしゃいますなあ。

以上は、旧約聖書の創世記という巻の2章に書かれていることだ。人類最初の男の名がアダムということはわかったが、女の名前は出てこない。初めて出てくるのは次の3章だ。その名前は? Dr. Marks 何言ってんだい、自分で「イヴ」って書いてんじゃないか。確かにそのとおり。しかし、日本語聖書では「エバ」ちゃんですよ。どちらもヘブル語の「ハヴァ、Chavah、חוה」という言葉を発音しやすく言い換えただけであり、イヴでもエバでも結構。意味は「命」ということでなかなか趣がありますなあ。

ところで、このイヴはどのような女であったかというと、それほど詳らかではない。3章の中で蛇にだまされて神が食べてはならないと命じた園の中央にある木のうち善悪を知る木(他に命の木がある)の実を食べた女、あるいは誘惑に負けた女として描かれているのがほとんど唯一の手がかりである。旧約聖書のほかの箇所には直後の4章以外には登場しない。

新約聖書にはパウロの口から彼女の名が出てくるが、いずれも(第二コリント、第一テモテ)好意的ではなく、ほとんど罵倒といってもいい。やれ、女は男より後にできたんだから、男の後ろに控えていろだの、アダムはだまされなかったのにイブが誘惑されたなどと糾弾している。ホントにパウロは嫌な奴。Gynocentrismも困るがこれほどあからさまなandrocentrism(male chauvinism)も困ったものだ。(パウロだって、女にやさしい面もあることはあるのだが、イエスより明らかに男性中心主義者だな。)

しかし、3章をよく見ると、イヴは神に対して蛇に唆されて食べたと事実を述べたが、アダムはイヴが木から取って自分に与えたので食べたと弁明している。アダムの返答も事実といえば事実だが、取ったのは自分ではないという弁解があるし、そもそも食べてはならないことを知っているのに食べたことに対する釈明が一切欠けている。

さあ、ここで思案だが、アダムは命令違反であると知りながらなぜ食べたのか。昔から、イヴは単純に蛇の甘言に誘惑されたが、アダムは積極的に神に対する不服従を実行したなどと解釈する人も多い。うん。少なくともこの解釈ならば、パウロ先生よりも公平な見方かもしれない。つまり、イヴは無邪気に誘惑に遭っただけだが、アダムは自覚的犯行だというのである。

もっとひねくれて考えると、初めから二人とも善悪など知らない状態、すなわち園の中央の木の実は食べていない状態だったのだから悪いことをしているという自覚はないので両人とも無罪というやつだ。似たような議論はパウロにもあるね(律法によらなければ私は罪を知らなかった―ロマ書の議論を参照)。

しかし、アダムはイヴから木の実を手渡されたとき、イヴと同じ動機と誘惑で、つまり本当に食べてみたくて食べたのであろうか。その可能性はもちろん排除できない。しかし、もう一度、創世記3章6節の問題の箇所をよく見ると、「いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆」かされているのはイヴであって、アダムの心の状態ではない。

神から禁止されていることを知りながら、アダムはイヴから渡されたから食べたのである。その際、イヴが熱心にアダムを説得して食べさせたということの記述はない。主婦が夕餉を整えて、夫がそれを食べるような機械的な(というか日常的な)一連の動きだろうか。そうは思えない。禁止されたことを破ってまですることだから、一大事である自覚はあったはずである。

さあ、結論だ。心やさしい男は据え膳を断れない、往々にしてだ。(だから、同じ旧約聖書箴言では繰り返して、据え膳を受け入れてはならぬと戒めているだろう。)自分がいとおしいと思うイヴが差し出すものを断りきれないのだ。イヴの歓心を買ったのだよ。代金は木の実を食べるという神への不服従だった。イヴは人類史上初めて買われた女、人類史上初めての娼婦だ。

あーあ、終わりまで読んで損をした。Dr. Marks の出鱈目とこじつけだー。

いや、そうでもないんだよ。娼婦というのは確かにこじつけだが、魅力ある「おんな」の歓心を買うためなら何でもしてしまうのは「おとこ」の原初からの習性なのさ。

イヴはアダムとともにお揃い(togetherness)かどうかは知らないが、神から皮の衣を着せてもらってエデンを旅立ち、アダムの子、カイン、アベルを産んだ。これは間違いなくイヴの子たちである。多分、アダムの3人目の男の子セトもイヴの子であろう。アダムはセトの後にも(何しろ930年も生きたのだから)息子や娘をもうけたと創世記5章に記されているが、その子たちの母親もイヴであったかどうかは明らかではない。

その理由は、彼女の名前が4章1節を最後に途絶えるからだが、これから始まる「聖書のおんな」も、それらの女に関わる男もみな、彼女から生まれたのである。従って、イヴの物語は今も続いているといっていいだろう。