Comments by Dr Marks

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ユダヤ教において「親の罪を子が被らなければならぬ(Must Take Over)」というのは一般的ではない、況やキリスト教においてを乎、について

ああ、忙しい。今日は夕方にレッスンもある日なのになあ。10時までに事務所に行かなきゃならないし。日本時間の12時半だけど、起きてる人は起きてるから急ごう。(これというのも、私が野次馬で猫猫先生が出ている黒古先生のブログに書き込んでしまったのが発端だから、身から出た錆なんだ、嗚呼。そのコメントの一部を下に引用しておく。)

罪を被るというとイエス・キリストの十字架の死(人類の罪の身代わり)を想像してしまうが、あれはもともと動物が担うものであって、ユダヤ教に綿々として受け継がれている思想はむしろ人身御供の禁止である。また、「親の因果が子に報い」的思想の根拠として出エジプト記20:5(関連して、民数記14:18、申命記5:9)を挙げる人がいるが、いずれも素人さんと思っていい。これは神と人間との信仰と契約の関係であって、人間社会の法秩序ではない。これは聖書学者の常識。

それでは、人間社会の法秩序の常識はというと、例えば(というよりこれが主たるものだが)レビ記20章に死に値する罪と罪人の範囲が記されている。それによると、あくまでも罪は本人が被る。また、ヨシュア記2章19節の連帯責任とは親子のことではないが、この連帯責任には合理性がある。遊女ラハブ(←小谷野先生、遊女ですよ遊女!)とヨシュアの契約にあるもので前後を読んでいただきたい。(引用をタイプする時間がありません。)とりあえず、以上、親の罪を被る子なんていません。もしそうなら、子供なんて「けっ」と言って逃げてきますよ。

2008-09-17 23:45:06 (黒古先生のブログへのコメント)http://blog.goo.ne.jp/kuroko503/e/2b510886f6e643e3cc8c2fd25e024411

神学や名無しさんがお詳しい哲学を離れて、これは歴史(あるいは歴史学)の問題だと思います。あるいは社会心理かもしれません。


>「キリスト(ナザレのイエス)自身が純粋なユダヤ人なのにね。」というご指摘がそれ自体としてユダヤ人を「『メシア』を殺した民」として差別


おっしゃる通り、このこと自体(Anti-Semitismのこと) が謎なのです。矛盾しますから。恐らく聖職者レベルではイエス(イエッシュア=ヨシュア)がユダヤ人であることを知らないはずはないと思いますが、聖書を自分で読むことのない人たちは、その矛盾に気づいていなかったかもしれません。

ユダヤ人に対する差別は、どなたかが(また名無しさんも)おっしゃっていますが、教会やキリスト教以外のさまざまな要因があると思います。しかし、キリスト教側で誤解の元を作った一つが「受難劇」(教会アトラクションとしての)ではないかと思っています。英語版のWPで"Passion Play"を見てください。

現存する今でも有名なのがドイツのOberammergauのものですが、クロッサン(J.D. Crossan)なども、あれはよくない、と言っていますね。どういうわけかマタイ伝27:25特有の「血の責任は…」という台詞が使われるようです。マタイの責任だから、マタイの子孫だけが被れ、なんちゃって。

今朝、私のブログで猫猫先生にもお答えしたことに補足すれば、気違いじみた箇所を除けば、ユダヤ人もレビ記20章の規定のように、個人の罪は個人で終わります。ヨシュア記2:19の連帯責任規定も今日の常識に合わせても妥当な連帯責任ですから、これは理解できます。

本当にマタイってどうしたんだろう。困った人ですね。もっとも、私はユダヤ人のまっただ中に暮らしていますが、ユダヤ人同士も差別のしっぱなしですよ。年がら年中。

皆さん、たびたび野次馬ですみません。マタイの子孫かな…。MWW