Comments by Dr Marks

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日本語新書版の分量と聖書学雑誌論文1本の分量

日本語新書版の分量と一口に言っても多様ではある。しかし、通常の新書版は通読にそれほどの時間を要しない。読書の速さは人それぞれであるし、また同じ人でも内容によって速さは違うので何時間かかるなどとは言わない。学術的単行本1冊から比べれば薄いということである。(この場合内容の薄さではない。もちろん、新書には内容も薄いものが多いことは周知の事実ではあるが。)

話を神学に限るが、人文社会科学系は大差ないはずである。学術書あるいは博士学位論文は5章から10章で構成されるものが多いが、通常、専門雑誌の論文はそれらの1章あるいは2章分の長さである。そして、2章分もある論文になると、優に新書版1冊の長さになってしまうか、それ以上である。

1980年代までの学位論文も学術雑誌論文も、あまり長いものはなかった。ところが、1990年代からはどちらも長くなる傾向がある。その原因は二つだと思っている。一つはコンピュータ(ワードプロセッサー)の普及で、著者が自分で容易にタイプできるようになり、長く書くことを厭わなくなったことであり、二つ目は印刷コストの減少である。この二つ目の理由は、第一の理由とも関連する。つまり、以前はタイプ組版を印刷所に任せるため高コストであったが、現在はほとんどが著者のデータを印刷所に引き渡すだけで済んでしまうからだ。

近年、アメリカの多くの大学で、博士(Doctor of Philosophy)論文の長さを制限する動きがある。以前は、旧学位制度の日本と同じで、なるべく長く書きなさいなどと馬鹿げた勧めをしていたが、今は逆である。査読が疲れるというのが本音かもしれないが、未整理で長いだけのは確かに困る。しかし、事実、昔はそのような勧めでも構わなかったのではないかと思える節もある。長さより質であるのは当然であるが、1980年代までは、ハーヴァードあたりの学位論文でも今に比べれば短かった。(荒井献先生の学位論文の長さは、私の学位論文の長さの3分の1、田川建三先生のものは私の2分の1。質の話は別。)

いや、なぜこんなことを、ぶつぶつと書いているかというと、ハガルの結論を書く前に、ロトの娘たちの近親相姦について調べていて、ここ数年の間に出た関連の論文3本をコピーして持ち歩いたのだが、それだけでハーフ・インチ(13ミリ)のバインダーが満杯になってしまった。長い論文は、確かに日本語新書版どころの長さではないのである。目的を決しての論文読みだから斜め読みで、3本読んでもそれほどの時間はかからないのであるが、とにかく長くなったと感じたからだ。

そういえば、私の学会SBL(Society of Biblical Literature)でも昨年「長大書評事件」があった。電子版では全文掲載されたが、紙印刷版では掲載拒否になった。なにしろ、単なる書評*1なのに新書版1冊分の長さの堂々たる論文だったからだ。

*1:単なる書評と書いたが、人文系の学問では、書評も業績にカウントされることが多い。