小谷野敦先生のブログ「鈴木堅弘の珍妙な注のつけ方」について少々
私はまず注を見て驚いた。たとえば、(19)阿部泰郎「『大職冠』の成立」(吾郷寅之進、福田晃編『幸若舞曲研究 第四巻』三弥井書店、一九八六年、八二頁)とある。ところが、次の注も、その次の注も、ページ数が違うだけで、「阿部泰郎「『大職冠』の成立」(吾郷寅之進、福田晃編『幸若舞曲研究 第四巻』三弥井書店、一九八六年」と繰り返されているのだ。普通「阿部前掲論文」だろう・・・。結局この書誌情報はこの注で五回繰り返されている。ほかにも同じような例がある。(29)『鹿の巻筆』(「湯屋の海士」)(貞享四年〔一六八七〕)(小高敏郎校注『日本古典文学大系第一〇〇 江戸笑話集』岩波書店、一九六六年、・・・」とあるのが、次の注でもまるごと繰り返されているのだ。何だか、いくら扉を開けてもまた扉という悪い夢でも見ているようだ。
これは査読論文である。査読者は、こういう繰り返しはしないで「前掲」で処理せよと、なぜ言わなかったのか、また指導教員はなぜ注意しなかったのか。昔と違ってコピペで済むからこういうことをするのか、それで論文の量の水増しでも図ったのか。(猫猫ブログより)
少し、鈴木さんと査読者の弁護をします。しかし、私の言う以下の理由どおりだったのか、単なる無自覚からの冗長だったのかは別の問題です。
近年は日本語の「前掲」に当たる文献注記はアメリカの大学院教育ではしなくなっており、学会誌の投稿規程でも「前掲」を用いるなとなっています。理由は、「前掲」だけでは*1しばしばどの前掲書であるのか錯綜している場合は不明瞭であること、また部分的に引用した際などは前に戻って前掲書を探し出すのが困難であるからです。そこで、反復を厭わず書誌事項をフルに書くように指導されています。また、往時の印刷事情とは異なり、ベージ数は増えますが、小谷野先生おっしゃるとおりコピペが簡単ですので印刷コストにはそれほどの影響がないこともフルに反復することが推奨される理由です。
ただし、あまりにもたびたび登場する文献については、冒頭で略号で示す旨断って、フルで書くことを避けますし、同一ページで連続する場合などは「前掲」の意味は明確であるので使用を認めています。むしろ、そのような場合はフルで書くほうが逆に見にくくなるからです。(その点から言えば、確かに「吾郷寅之進、福田晃編『幸若舞曲研究 第四巻』三弥井書店」の部分の繰り返しは目障り。)
以上は、一般論であり、鈴木氏や査読者が意識していたことなのか、また具体的には「前掲」としたほうが妥当であるのかについては、見ていないので私が判断できることではありません。小谷野先生が異様に感じたということであれば、逆に「フルに書くように」という指示が杓子定規に守られすぎたケースなのかもしれません。そうなると程度と常識の問題です。しかし、いずれにしろ、数ページ先に再登場する場合などは、私も繰り返しを厭わずフルで書いてもらうと助かるので一言コメントいたしました。
おまけ:小谷野先生の「笑いとセックス」はヘブル語でも共通することが面白い。
*1:阿部前掲論文1986ならわかることはわかる。同年に二つ以上の論文があったら、阿部前掲論文1986a、阿部前掲論文1986bなどとすることは、小谷野先生おっしゃるとおり可能。