ちょっと気分を変えて:人はなぜ生き返らないかについて(ベツレオ族の民話から)
前書:Twitterでゴールダー先生の棄教について英日でつぶやいたが、復活がボトルネック。新約聖書学は片手間で(片手間でできるということではなく偽新約学者ということ)本業ではないが、お墓で学位を取ったお墓学者らしく、今日は「人はなぜ生き返らないか」についてベツレオ族の民話から紹介しよう。多分、日本の宗教学者や人類学者でこの話を知っている人は10人もいないと思う。(一人もいなかったりして。)やば、誰か日本語にしたかもしれない。だったら、どちらの訳がいいか比べてね。「お話」の部分は、原文どおりに和訳したので。
珍しい話である理由:この話を最初に文献にしたのはH.-M. Dubois という学者だ。Monographie des Betsleo という本の中にあるのだが、1938年のもので入手しにくい(見つかれば5万円くらいかな)。現物は見ていないが、ケンブリッジとオックスフォードをそれぞれ卒業したという嫌味な奴が読んでまとめた中の一つの話だ。その嫌味な奴は想像できるようにイギリス人だが、今のところ企業秘密なので誰かは教えない。なお、ベツレオ族というのはマダガスカル島の高地に住む土人(←立派な学術用語だから使う)である。
お話:夫婦がいて複数の子供をもうけた。その子供のうちの一人が死んだ。皆は泣き叫び、嘆き悲しみ、神に恨み言を言った。神は、ご自分の息子を遣わして、事の次第を探らせた。神のご子息は地上に降り立つと、可愛そうな人間たちに非常な同情の念を禁じえなかった。彼は天上に帰ると、父である神に死んだ子供を生き返させる許可を申し出、また地上に戻って行った。
しかし、天上から地上への旅は長く、地上に再び降り立ってみると、件の人間どもは歌舞に興じており、死んだ子供のことなど忘れていることがわかった。神の息子は腹を立て、父である神の許へと再び帰ってしまった。
彼は神である父に言った。「彼らはもはや悲しんではおらず、遊び呆けています。」父である神は頷いて、「そうだろう。死人を生き返らしてやったとして、何の役に立つというのだ。」と言い捨てた。以来、人は死んだら生き返らない。
後書:キリスト教とは関係のない話だった。すまん。まあ、小話ということで許してくれ。しかし、デュボワの作り話じゃないだろうな。なにしろ1938年だから。万が一そうなら、人類学や宗教学の資料としては使えないが、「人間の話」としては使えるな。