Comments by Dr Marks

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リビア騒動とリビア東西の温度差について:西のトリポリタニア地方(トリポリ)と東のキレナイカ地方(ベンガジ)、更にカダフィ派(西)と旧王党派(東)

リビアに関しては「革命=revolution」ではなく、「騒乱あるいは暴動=uprising or riots or rebellion」というのは、ある程度この国の事情を考慮してのことだろう。1942年生まれの通称カダフィ大佐(ムアンマー・カダフィーは濁ってガダフィーとも発音される)が実質的に権力を掌握していたのは確かだが、他のアラブ諸国とは別で、国民への富の配分はある程度徹底していたようだ。従って、近隣諸国からの出稼ぎも多かった。

リビアの東西は、そもそもは別の国だ。現在も西部をトリポリタニア、東部をキレナイカと呼ぶが、カダフィの革命前の王国時代は、首都はトリポリタニアトリポリキレナイカベンガジの二つであった。西部のトリポリタニアは紀元前5世紀頃からフェニキア人(カルタゴ人、ポエニ人)の国として開け、東部のキレナイカは紀元前7世紀頃からギリシア人の植民地として栄えた。

トリポリス(すなわちギリシア語で三つの市)は、現在のトリポリ、レプティス・マグナ、サブラタの3市で西部の主要都市だが、キレナイカはペンタポリス(すなわち同じくギリシア語で五つの市)と言われていた。それがキレナイカとも言われるのは、港町キレネから来ている。このキレネとベンガジ、アルマリ、ツクラー、スサーで5市である。

前述のごとく、第二次世界大戦後のリビア独立に際して国王イドリス(在位1951−1969)は、西部地区懐柔のためトリポリも首都としたが、実際は東部を本拠地としている。この王を退位させたのが当時まだ大尉だったカダフィ大佐27歳のときである。カダフィーはこのとき、士官学校を卒業後、ボスニアギリシア、イギリスで卒後教育を受け、帰国したばかりであった。

しかし、カダフィトリポリタニアの地域主義者ではない。そもそも生まれもベンガジトリポリの中間のシルトであり、当時はエジプトのナセル主義者であり、リビア一国どころか全アラブが団結することを望んでいた。ただし、彼自身砂漠を流浪するベドウィン(すなわちアラブ人、一説に、彼の母親はユダヤ人とも)の出であり、古代からトリポリタニアに土着するベルベル人(この名称はギリシア語の「バルバロイ=異語の民」からだが、自称は「アマジーグ=自由の民」)と共通する気質がある。

まあ、「気質」などはいい加減な言い方だが、カダフィーが気違いと言われるのは今に始まったことではない。もともとマッド・ドッグ(気違い犬)が彼の西欧でのニックネームだった。そうそう、ニックネームといえば、五男のハンニバルという名前は本名でなく仇名だそうな。ポエニ戦争ハンニバル将軍だよ。カルタゴの大将。トリポリタニアの象徴だ。


すでに次男のサイフ博士について書いたが(http://d.hatena.ne.jp/DrMarks/20110221/p1)、この五男は気違いの血を間違いなく引いているらしい。しかし、この五男も一応軍医様なんだよな。お医者さん。ドクター・ハンニバルさ。そうだ、四男も面白そうなので今度機会があったら四男についても書くかな。カダフィの奥さんのソフィアさんも面白そうだな。第一夫人、第二夫人ともにソフィーまたはサフィアとも発音されるが、重要なのは第二夫人。クロアチア人で国際結婚。次男から七男はすべて彼女の子。娘も一人いる。

ところで、スイス政府がカダフィ大佐の口座も凍結させると公報したそうだが、家族や側近の口座は知らないが、大佐自身の口座はないそうだね。何しろリビア国家の英雄として砂漠で死ぬのが理想の変人だから、(家族はともかく)自身は金には執着しないのかもしれない。