Comments by Dr Marks

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No.2. 『聖書のおんな』―2. サラの巻(1. 方法論的序)

いくつかの予備的手続きを先にする。まず、サラという名前だが、英語ではSarah または Sara と綴るが、ヘブル語 שרה(サラー)の翻字(transliteration)としては前者が一般的である。日本語としては伝統的に旧約聖書のサラーをサラと言い習わしてきたので、英和辞書には Sarah=サラとしているものが多い。それはそれでよい。聖書の女であるサラはサラとしてきたのだから。

しかし、アメリカ人の Sarah(Sara)の場合は、ヨーロッパ的な読み方でなければ、ほぼ全てがセイラ(セーラ)と発音されるわけである(ヨーロッパ的にはサーラ、ヘブル的にはサラー)。今度の共和党からの副大統領候補者は聖書のサラではない、アメリカ人としてのセイラである。近頃は日本のメディアも韓国・朝鮮の鄭さんをテイとは呼ばずチェンと発音してあげるほどの気配りをしているのに、なぜセイラ・ペイリンには無神経なのか私にはわからない。

ところで、日本には出世魚という概念がある。男が元服して名前を変えるように、一部の魚は成長段階によってその名を変える。例えば、私のブログのお客様の中にもブリがいらっしゃるし、トドもいらっしゃる。ただし、ブリのほうは明らかに魚のブリのアバターを使っていらっしゃるので間違いなく出世魚のブリ(上がりがブリになる)だが、トドさんはひょっとしたら海獣(哺乳類)のトドかもしれないと思っている。もし出世魚ならば「トドの詰まり」のトドであり、ブリと同じく上がり(最高位)の名前である。

聖書の登場人物にも出世魚のように名前を変えていく者がいる。サラやサラの夫のアブラハム、あるいはイスラエルヤコブの後の名)という名前もそのように考えていいだろう。しかし、新約聖書のペテロ(シモンの別名)、パウロ(サウロの別名)、福音書記者マルコ(ヨハネの別名)は出世魚的な概念が当てはまるとは思われない。あくまでも別名である。Dr. Marks はDr. Waterman の別名であり、何も出世したわけではない。(ふん、出世とは無縁の男だよ、悪かったね。)

既に予備的手続きが長くなったが、もう一つだけ言っておきたい大事なことがある。少し長くなる。初めの構想では、私の想像力を働かせて「聖書のおんな」を書く予定だったが、実際に書き出すとブレーキがかかってしまった。お気づきだろうが、最初の「イヴの巻」で私の書いたことは聖書学の常識と聖書のテキストからほとんど逸脱はしていない。自分で言うのも変だが、実に手堅い描写なのだ。その点面白みには欠けるかもしれない。何しろオリジナルな面は、私の叙述そのものにしかなく、内容そのものに新しい点はないからだ。

なぜそうなったかを正直に申せば、書いているうちに自然とそうなったとしか言えない。余計な想像を加味することができなかったのだ。お前はイマジネーションというものがないのかと言われると、その通りなのかもしれないが、小説を書いているときは構わなかったのに、聖書の人物となるとどうしてもブレーキがかかる。そんなときに、現代日本を代表する世界的新約聖書学者二人の発言にたまたま触れた。

その二人とは田川建三大貫隆であるが、どちらも東大西洋古典学系でありヨーロッパのプロテスタント系神学部で学んでいる。田川は日本帰国後は日本語の著作を発表しないためマルコ伝研究者以外には欧米であまり知られてはいない(1980年代までは知名度が高かった)。しかし、大貫は私の師からも名前が出るほど近年の活動がドイツ語書籍を通してアメリカでも知られている。

先日、滝沢克己の著作の「あとがき」を田川が書いているのを、大学の日本語書籍部で見つけて読んだ。田川はそこで、滝沢の聖書註解は学問的背景はなく、ことごとく説教にすぎないと酷評していた。滝沢の本文を読んでみてその通りだった。説教というものは、聖書本文あるいは教会教義を基にしながらも、そこから出て日常あるいは時勢に適用した話となるものであって、聖書本文でも教会教義そのものでもない。神からの啓示によると主張しようがしまいが、あくまでも説教者個人の主張、あるいは己の人生観を開陳しているにすぎないのである。しかし、説教である限りは、それはそれでよい。説教者の魅力というものもそこにあるからだ。

しかし、聖書註解となるとそうはいかない。聖書本文(我々業界ではこれをテキストというが教科書のことではなく「本文そのもの」のことである)の語学的に精密な解釈とテキスト成立の歴史的・社会的な背景の検討だけでなく、先人の解釈の歴史を渉猟して先人の解釈の評価もしなければならない。実際のところ、このことに従事すると、勝手な想像や自由な飛躍ができなくなるのである。

このことについて、deepbluedragonさんが紹介くださったブログATAKTAで、大貫の最近の言動を知った。幸い、ATAKTAのリンク先のPDFで全文を読めるため読んでみたが、大貫はそこで古典研究の「ブレーキ」という言葉を使っている。まさに、同じブレーキが、「聖書のおんな」を描こうとするときにかかってしまうのだ。

読者の中には、自由な飛躍にブレーキがかかるようではつまらないとお思いの方も多いだろう。その通りだ。フィクションの世界にまでブレーキを持ち込まなくてもいい。それは当たり前だ。しかし、学問の世界でそれでは困る。よろしい、わかった。確かに、学問の世界では不都合かもしれないが、このブログで「聖書のおんな」を語るのに何も不都合はないではないか、とおっしゃる方もあろう。なるほど、そのようにも言える。このブログは学術論文でも何でもないからだ。

しかし、今まで本家においてもたびたび批判してきたが、余りにもいい加減な聖書関連本やキリスト教本が氾濫する中、私まで、たとえブログといえども私見と出鱈目だらけのクズを出す気にはならない。冗談をちりばめてはあっても、しっかりとした内容の「聖書のおんな」を書くのでなければ、私事で恐縮ながら、私が人生の方角まで変えて人よりも遅く神学を志した意味がない。人生など短いものであるから、意味のないことに費やす時間はないのである。(ふん、偉そうに。ああそうかい、ご勝手に。)

また、このような態度で書き進めるためには、先行研究の渉猟も必要であると上に述べた。旧約聖書に関しては私は専門外である。いや、正確には新約聖書学も専門外と言っていいのだが、こちらは逃げることはよそう。新約学関係者の端くれと言っておこう。従って、最近の先行研究くらいはなるべく目を通して書くつもりだ。ただし、やっかいな注などはつけない。(聖書学の論文というものは、本文に注が付いているのでなく、注の中に本文が散在しているといって笑われることがあるくらい注が詳細であるが、一般には読みにくくなる。)

そういえば、猫猫先生が「先行研究」無視の著作を馬鹿にしていたな。その通りなんだ。学識があるかどうかは先行研究をどれだけ正確に押えているかどうかなんだ。大貫らの座談会でも和辻哲郎のいい加減さを批判していたが、彼は自分が学問として修めてもいないことを安易に書き散らしただけである。今の日本の流行学者の大半がそうだな。

ここでも同じことを批判する人がいるかもしれない。そんな融通の利かないのが学問かって。そうですよ。先行研究との対話の上に新しい知見が加わるのだし、新しい発見があるのです。反対に、既に誰かがやったことを知らずに、同じことに一生を費やす者がいたらどうしますか。馬鹿ですよ。だから、先行研究の正しい学びが学びの大半といっていい。どんな世界でも汗(perspiration)が99パーセント、閃き(inspiration)は1パーセントもありはしないのですよ。閃きだけで勝負した結果はゴミです。

(先行研究の効率的な学習方法はあります。それを教えてくれるのが学校です。闇雲にやると、それこそ道半ばでお迎えが来てしまう。嗚呼、もうFinal Event なんちゃって。)