Comments by Dr Marks

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Juan Masiá Clavel(ホアン・マシア・クラヴェル)神父の悪魔観とローマ・カトリックの悪魔観について

係わり合いになった関係上一言述べなければならなくなった。大本であるブログにコメントしてほしいとの希望もあったが、ご本人が討論を控えておられるのに、そこで何かいうことは控えなければならないと思った。ここに、そのこと(言い訳だが)を書いておけば、関係者の目に付くことであろうから、それでとりあえずの責任は果たしておけるだろう。

私は本家においてもこの分家においてもコメントの受付を(意味のなさないいたずらは別として)拒んだことも(消去希望は別として)消したこともないから、自由に寄せていただくことをお願いしている。ただし、私も議論のための議論は好きではないので、何らかの返事は必ず差し上げるが、議論の打ち切りを申し上げることはある。

しばしば誤解があるので念のため申し添えるが、実は学者間の討議でも打ち切りはある。学者は講義や研究発表や著作で不特定多数に向かって学説や意見を表明するが、一対一の議論は必ずしも何らかの合意まで続くわけではない。否、「何らかの合意」に至ることなど極めて稀である。従って、どちらかが継続を希望しなければ終了するわけで、更に討議を強要することはできない。

さて、標題の神父様だが、イエズス会士でキリスト教倫理学が専門の学者でもあると聞いている。長らく日本に滞在されているので、ご自分の日本語で書かれた「J.マシア神父のブログ『手作りの考え方』」というブログをお持ちだ。このブログで今回話題となったのは次の記事だ。
http://d.hatena.ne.jp/jmasia/20081211

私はそこのコメント欄にあるantonian氏のコメントどおり、一つの件についてはマシア師の書かれたルカ伝4章19節が、イザヤ書61章の引用ではないことを聖書学者の立場から意見として述べた。すなわち、同じルカ伝4章18節の大半(最後の1行を除き)は七十人訳からの「引用」であるが、19節は「ほのめかし(allusion)」なのであり、イザヤ書の「引用省略」などという議論そのものが成り立たないことを述べたのである。なお、19節は「ほのめかし」としてはイザヤ書であるばかりでなく、レビ記25章10節でもあることは聖書学者の間で意見の一致があるものと私はみている。(Nestle-Aland校訂ギリシア新約聖書の欄外注参照。)

もう一つの件は、悪魔論(Demonology。ただし、天使論=Angelologyの中で関連して議論される)である。私はこのことについて何か申し上げるのは初めてだ。私自身が興味を持たない分野であり、語りたくはない。しかし、神学教師(たびたび述べるように、私は聖書学者と自称しているが公式には神学者)としては神学思想史の中で触れざるをえないことがある。また、史的イエス研究の中でも「奇蹟譚」と「史実」との関係で話題にせざるをえないこともある。

そのような立場にすぎないから、私は私自身の見解として天使や悪魔を積極的に語るものではない。ただ単に歴史的な経緯や天使論の内容について申し上げられるだけで、私の信仰に基づくあるいは学識に基づく個人的見解はない。ちょうど、私はキリスト者として復活と神の国の信仰を告白する者ではあるが、死後の私の状態や天国(神の国)の状態をさも見てきたように語りたくないのと同じである。そのようなことは私には知りえない。

さて、この第二の問題(悪魔や天使)について、Lucia氏がマシア博士に向かって、カトリックの教えから天使や悪魔は迷信として消えてしまったのですか、と問いかけておられる。それに対してマシア博士は間接的で非常に短い答を提示するだけでそれ以上の説明はなされない。マシア博士がそのコメントに十分にお答えにならない理由はわからないが、私が上に述べたように、議論の共通の基盤が失われているとお感じになったのかもしれない。これは、私のあくまでも想像である。

随分と長くなったが、以上の経緯の中で DrMarks とも言われる私(Mark W. Waterman, Ph.D.)のコメントが代役的に求められていたことになる。コメントしたLucia氏はローマ・カトリック信徒らしく、なんらかの専門家からの答(反応)を切に求められておられる気持ちはよく伝わってきた。しかし、私はプロテスタントの伝統にいるため、ローマ・カトリックの教義には一般的な知識しかない。その範囲で答えるしかない。

悪魔の存在の問題は多岐にわたる。例えば、「存在」といってもさまざまな存在の形態があるため、そのような議論に深入りしたとしても今の用には立たないであろう。そこで私は、この議論の発端となったルカ伝4章の「主の恵の年(時)」の到来に話を絞る。

この解放の年を単にヨベルの年と考えれば、指折り数えて時が経てば自然に到来する時期であるから、自然のなせる業であり神の介入も何も要しない。しかし、もちろんヨベルの年も神の定めた律法の時であるし、人が予測できない時をも主イエス・キリストがイザヤの預言に託して高らかに宣言されたと理解すれば、そのときは勝利の時でもあるし、神の国の到来の時であるはずだ。

このような「時」を、我々はどのようにして感じることができるのであろうか。神の国は、あるいは勝利の時は、一人一人に訪れる場合と、世界全体に訪れる場合があることはマシア師のブログにもある通りだ。しかし、そのいずれにしても、解放や勝利は昨日より今日のほうが金持ちになったというような量的推移ではありえない。常に質的変化である。すなわち、例えばだが、罪ゆえに受け入れられなかった者が受け入れられたり、何か大きな力で虐げられていた者が解放される時には、その明るい「恵み」の面が「表」だとするなら、何者かに打ち勝ち打ちのめして勝利した「報復」の「裏」の面は存在する。

つまり、表があるのなら裏があるというのが道理であろう。『公教要理』には、悪魔やサタンに関する記述がいくつかある。その中でも、今回の議論にかかわりそうな所は「550」であろう。イエス自身の悪魔払い(エクソシズム)は、神の国の到来に欠かせない戦いであった。あらゆるものが対価なくして入手できないように、恵みの時も悪魔に対する勝利なくして到来しないというのが(プロテスタントの私が言うのもおかしいが)カトリックの教えであり、カトリックの教えの中には「悪魔が存在」するのである。

再び念を押すが、ここでの悪魔あるいはサタンの存在をSF世界の魔物のように理解してはならない。(部外者なので間違っているかもしれないが)カトリック教会での悪魔払いの儀式は聖職者に限られる。陳腐な想像や誤解を生まないためである。プロテスタントの教会(例えば、一部のカリズマペンテコステ系)が安易に日常的に、かつ信徒が(万人祭司ということではあろうが)悪魔払いをすることとは好対照である。

以上の通り、ローマ・カトリック教会は今なお「悪魔」についての伝統的な教えを保持していると私は考える。この『公教要理』(550)が、マシア師の学者としての見解と遊離しているか否かは誰も判断することはできない。必要があれば、マシア師ご自身が説明なさればいいことである。なお、我々はマシア師が、ことさらに「手作りの考え方」と述べられていることを尊重する必要はあるだろう。ローマ・カトリック教会としての見解がどうしても必要であれば、他の(例えば、自分の教会の)神父ら(なるべく複数)に確かめられることを、最後にあたりお薦めしたい。