Comments by Dr Marks

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No. 3.

「共観福音書問題」(第3講)Q資料的なものがヨハネ伝に適用された時代(フォートゥナの「しるしの福音書」登場)Q理論を知るための一助として

どうも私は横道に逸れる傾向があり「横道ハカセ」という異名もある。思えば、私は横道が大好きだった。小学校時代から社会人になっても、まともに来た道を帰ることはなく、あちらこちらに寄り道したものである。また、先生が授業の中で、あるいは講義の中で横道に逸れてくださることを好んだ。いい先生の横道は、たいてい為になることであり、他のことは皆忘れても、横道の良かった話はいつまでも覚えているものである。かくして、私の横道好きは確信犯的なものだが、役に立つかどうか、それは心許ない。

さて、フォートゥナとは Robert Tomson Fortna 博士のこと。ニューヨークのヴァッサー大学(Vassar College)の名誉教授だ。「しるしの福音書」とは、彼の提案するヨハネ伝の原資料(written source, literary source: not oral tradition)の一つで Signs of Gospel(略称 SG)と命名した。この場合のサイン(複数形)はギリシア語のセメイア(印としての奇蹟)のこと。

博士はアメリカ人で、エール大学を卒業した後、英国のケンブリッジ大学で大学院教育を終え、ニューヨークのユニオン神学大学院(Union Theological Seminary, New York)でThDの学位を1965年に得た(このThDは現在のPhDレベル)。ヨハネ伝の専門家であるレイモンド・ブラウン師が同校に赴任する6年前だった。(ブラウン師がいたら、大変だったろうな。)博士は私生活や個人情報は謎が多いが(俺みたい)、ジーザス・セミナーの The Complete Gospel で日本の方々も知ってらっしゃる方は知っている(当たり前か)。

このアイディアは独創ではない。独創ではないが、並みの者にはできない仕事だ。学歴から見るように頭は切れる。実はこれ、あのブルトマンが1941年にヒントを出したことなのだが、誰もうまくいかなかった。まさに、ブルトマンは「セメイアのQ」と言ったのだが、戦後の科学崇拝主義の風潮の中で、数量的に計算で割り出そうとした者さえいたが失敗した。しかし、彼は成功した(と一応言っておく)。

このアイディアは彼の大部の学位論文に示されたものだが、本人も公式にはThe Gospel of Signs: A Reconstruction of the Narrative Source Underlying the Fourth Gospel (London: Cambridge U.P., 1970) の出版年をもってデビュー年としているようだ。話の起こしを博士はヨハネ伝の種々のアポリア(袋小路あるいは解け得ない矛盾)に置く。この解決法として、さまざまな伝承のパッチワークを考えることは自然であるが、博士は積極的に、口承の矛盾的継承ではなく、歴とした文字伝承(資料)が現在のヨハネ伝に混入しているからだと主張する。(ああ、よかった。前回の第2講で「資料」の意味を説明しておいて。)

つまり、彼はこう説明する:(a)福音書にはとにかく最初に著者がいる、(b)この最初の著作は現在のヨハネ伝に引き継がれている、(c)ところが現在の版(我々が読んでいるヨハネ伝)に編集した、あるいは改訂した者が残したものがアポリアとして残っている。ふむふむ、なるほど。それで、どんな例が?

と思ってみると、例えば、ヨハネ伝2章のカナの結婚式で、3節から4節が謎だという。(この辺りは、手近の自分の聖書見てね。だから、聖書の内容まで詳しく書かない。何しろすべてが聖書を読ませる高等技術なんだから、私のブログは。)確かに、ここは「イエスの拒否」と言われる箇所で、イエスの母マリアが酒がないとイエスに言っているのに、息子のイエスは「嫌だよ、母ちゃん」と言いまんねん。なのに結局は酒を造っちゃうという奇蹟っぽいお話。

博士はここが矛盾だとおっしゃる。でもね、反抗期の息子を持った母親でもわかるよ。息子の「嫌よ嫌よ」なんて構っちゃいられない。実際に、マリアは息子の「嫌よ」なんか聞こえなかったかのように、召使いたちに「はい、それじゃ皆さん、私の息子の言うとおりやってちょうだい」なんて言ってしまう。(いや、本当はこんなおちゃらけではなく、ヨハネ神学からの解釈とか無数に矛盾じゃないという解決法はあるねん。ところがフォートゥナ博士はそんなん無視して自分の理屈をどんどんと・・・おーい、ハカセー、どこ行くねん。)

というわけで、いろいろ理屈や屁理屈をこねくりまわして、さあ、これが「しるしの福音書」といって、ブルトマンが予測したところの「セメイア資料(S-Q)」を抽出してしまった。抽出してしまったといったって、あーた、誰が認めるのっちゅうことになるが、クロッサン小父さん(←私は人間的には好きなんだけど、変な学者なんだ、クロワッサンみたいなしゃくれ顔して)なんかは、このS-Qを利用して更に変なこと書いてるな。なお、博士とクロッサン小父さんのヨハネ伝21章に関する屁理屈に対しては、不肖私めも議論したものが公刊されている、えへん。)

やあ、Fortna博士のは、なかなか立派な仕事だけどねー、憶測というかスペキュラティヴというか、妄想妄想、孟宗竹。大きく伸びても中は空洞。ええ、共観福音書のQ資料もそうかもよ。でも、これについてはなるべく余談(良い子の皆さんは予断と書く)を挟まず真面目にやっていきましょう。ところで、彼の説についてペーパーバックでも読めるようになったから(1970年の本は、日本では六つの大学図書館にしか入っていないから、一般の人は読むのは難しい)紹介しておく。俺って公平な男だな。ただし、騙されるなよ。

The Fourth Gospel and Its Predecessor: From Narrative Source to Present Gospel

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