Comments by Dr Marks

出典を「Comments by Dr Marks」と表示する限り自由に引用できます

パラグラフについて書いた外山滋比古。パラダイムのシゲルちゃんじゃないからね。(日本人と西欧人の思考形式の違いかぁ、一応なるほどだけど・・・)

學士會は近頃盛んに会員外(旧帝大系大学卒以外)の有識者を招いて講演会をしているようだ。それは非常によいことだと思う。同会の最新号(『學士會会報』 2010年7月号 No. 883)には、英語学の外山滋比古(とやま・しげひこ)による午餐会講演の記事が載っていた。彼は東京文理科大学出身でお茶の水女子大学の名誉教授だから、会員外の招待講演者ということになる。

演題は『知識と思考』であるが、パラグラフに関する考察が主題である。読んでみて、日頃からパラグラフを教えている立場からすると多少気になる箇所も散見したが、趣旨には基本的に同意できる。彼の主張を紹介する前に、パラグラフとは何かについて説明しておこう。パラグラフとは paragraph であるが、日本語に訳されて「段落」といわれる。しかし、それはパラグラフの訳としては不十分であるが、適訳がないので外山同様に余もパラグラフとしておこう。

すぐさま前言を翻すようではあるが、確かに「パラグラフとは段落のこと」である。そして、その段落とは文章の区切りであり、字下げ(indentation)や行を空けることによって区切られた文(sentence)のまとまりである。また、それぞれの文のまとまりは、一つ一つの段落の中で意味やアイディアが完結している。したがって、この最後の点が日本語の段落とは様相を異にする。

日本語の段落は、国語学者によって形式段落と意味段落という区別が試みられたように、普通は一つの(外形的・形式的)段落が意味やアイディアを完結することがない。一般的には日本語の段落はすべて形式的な(つまり字下げや行空けがあるだけで)段落に過ぎず、意味やアイディアが完結していない。意味やアイディアが完結するためにはいくつかの形式段落を繋ぎ合わせなければならない。そして、意味としてあるいはアイディアとして一まとまりになった(完結した)段落を無理に意味段落と呼んでいる。

したがって、日本語の見かけ上の段落(形式段落)は短く切れ切れであるが、英語のパラグラフであれば、見かけ上の段落(形式段落)と意味のまとまりの段落(意味段落)が合致するため、日本語の段落よりはるかに長くなる。(英語のパラグラフはすべて意味段落。)どうして日本語の段落が形式的で短いかということについては諸説ある。どうやら、英語の段落のように長い日本語は読みにくくなるらしい。これは確かにそうで、余も日本語のブログの段落は短い形式段落を採用している。

外山の今回の講演は、日本語の段落が短いことに対する一つの解答の提示でもある。それは日本語による思考形式を反映しているというのだ。日本語の段落の思考形式では、(例えば英語の)パラグラフ式思考形式を理解することができない。従って、独特な外交的摩擦も起こりうるというのだ。更に、諸外国からの知識の獲得においても、日本語の形式段落的アプローチでは、点(単語)と線(文)の習得は可能であっても面(パラグラフ)という全体が把握されていないと主張する。

外山はパラグラフの概念をヨーロッパの言語一般に共通のものであるかのように書いているが、実は、彼の説明しているパラグラフはアメリカの学校教育に特徴的なパラグラフであるから、厳密には共通しているとは言えない。しかし、近頃はドイツやフランスのパラグラフもアメリカのものに似てきたのかもしれない。かつて、とくにドイツの学術文献を読むと段落が極めて長く、ときには2ページに及ぶことも少なくなかった。

ところが、アメリカのパラグラフは、長いといっても10から15程度の文の集まりであるから、長くても半ページから3分の2ページ程度であることが多い。昔のドイツ語の段落ほど長いことはまずない。余は、このアメリカのパラグラフ教育の歴史的な経緯は知らないが、アメリカで教育を受けた者は、このパラグラフが何たるものか理解していない限り、よき学業を修めることは不可能であることはよく知っている。もちろん、小説などの創作活動における場合は別で、パラグラフは何かを客観的に叙述する際に限定された作文技術である。

パラグラフの構造について簡単に述べよう。パラグラフの最初の文を主題文(topic sentence)という。これからこのパラグラフの中で何を語るのかを総体的に表明する文である。あるいはパラグラフの中で主張したい意見があるのであれば、ここでまず主張を簡潔に述べることになる。決して主張点を結論に至るまで伸ばし伸ばしにしてはいけない。また、抽象的・象徴的な言辞は主題文にふさわしくない。つまり、「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」というような文がパラグラフの初めにあってはならない。パラグラフの最後の文は結論文(concluding sentence)といわれる。多くは主題文を別な言い回しで繰り返すことになる。この結論文と最初の主題文は、よくアメリカ人の好きな喩えで、ハンバーガーの上と下のパンの部分(英語ではこれをパンでなくバン bun という)と呼ばれる。その2つの文の間に本体文(body sentences)が挟まる。本体文の役割は、主題文の具体的な説明や主張の理由付けの文の集まりであり、主題文を全体としてサポートし、次第に結論文へと導く。これらは、ちょうどハンバーガーのバンの間に肉やハムやトマトや玉ねぎや菜っ葉やピクルスが挟まるようなのもで、これらがなければ内容の薄いつまらないものになってしまう。以上のように、パラグラフの構造は主題文、本体文、結論文の3層であるが、本体文は具体的な説明になるので、少なくとも5つくらいの文が組み合わさったものである。

上記の段落は、わざとパラグラフの形式で書いてみた。日本語としては幾分長くて読みにくいだろうが、この段落=パラグラフは、一つのまとまりのある文章として完結していることに気づくだろう。ところで、アメリカの学校教育においては、よく5-paragraph essay と呼ばれる訓練が行われる。学校にもよるがだいたい9年生くらいから嫌というほどやらされる。5つのパラグラフを使って作文あるいは小論文を書けという教育だ。そして、その構造は、まさにパラグラフの拡大版で、第1パラグラフが序論(主題文を拡大したパラグラフ)、第5パラグラフが結論(結論文を拡大したパラグラフ)、第2−4パラグラフが本論(body )となる3つ3部のパラグラフである。なお、各パラグラフの次のパラグラフに移る末尾の文(結論文に当たる文)は過渡文(transitional sentence)と特別に呼ばれる。

ここで5つのパラグラフは論理的に直線的に結合していなければならない。従って、起承転結的な東洋的論理を試みると、多分、転の部分が非論理的と判断されるかもしれない。部分的ながら論理の飛躍が発現するからだ。この辺りも、外山が指摘する通り、和洋の思考形式の差なのだろう。しかし、それは差であって、どちらが勝れているとは言えないと余は思うが、確かに、パラグラフを理解しない人とは議論にはならないなあ。

さて、結論。外山は、パラグラフに対する認識不足が、西洋文化の真の受容を妨げているという。例えば、翻訳は単語と単語の対応、文と文の対応だけであれば真の翻訳ではない。単に、日本語と西欧語の語順が違うなどと言っているのではない。翻訳は、パラグラフを見据えて、単語や文を組み替える必要も出てくる。外国語教育は今までのような文芸作品重視ではなく、科学的・論理的・思考的なパラグラフの理解が必要である。パラグラフという概念を念頭において、エッセイ教育を施すならば、日本語教育においても新たな視野が開かれよう。・・・だとさ。

おまけ:えーとね、5-paragraph essay を今度は5本くらい一緒にしたのがアメリカの大学院教育の小論文1本なんですよ。セミナーで発表した後で、そこでの議論や指摘を踏まえて期末に書き上げるわけ。この書き上げ方がよくないと前に進めない。落伍する。これって要するに形を変えたパラグラフなのね。そして、最後は、そういった小論文は学位論文の1章くらいに相当するの。それらを5本から7本くらいまとめる(集める)と学位論文のできあがり。1章か2章くらいなら、学会誌に既発表とかでも書き直して流用できる。で、全体的に一貫したパラグラフ的論理の流れが必要なのは当然。

おまけのおまけ:これってパラグラフ的思考のブログの見本→http://bit.ly/9NAUcH 普通の日本人のブログの流れと、同じ日本語でも違うことに注意。